わたしは不思議の環

僕には友達がいなく、ただひとり親友がいる。

 

かつてインターネットは、モヤのかかる朝なのか夕方なのかわからない都会のどこか、ひとけを感じられない怪しげな雑居ビル群、その隙間のたまり場のような所だった。

そこでは新しい規格の記憶装置について批評したり、Warezといわれる情報をやりとりしたり、アートネイチャーのCMについて議論を行ったり、電話を録音、WAVファイル化してばらまいたりしてチャット仲間の権威を失墜させたりしていた。

 

そんなインターネットの片隅、#通天閣というチャット部屋に僕たちは居た。

いろいろな人間と話をし、時にはオフ会で実際会ったりもしていたのだが、今はほとんどが生きているか死んでいるかもわからない。

 

稀に彼らの足跡を追うため、サーチエンジンを使って検索をしてみても、インターネットに対する理解が著しく進んでいる彼らをネットで見つけることはできない。

検索するくらいであれば、多摩川を散歩したほうが出会える可能性が高いのではないだろうかとすら思える。

彼らの自己機密保全性については本題ではないのでおいておく。

 

さて、特定の集団において特定の言い回しがはやることを経験したことがある人は多いのではないだろうか。

かつては少なかった集団もインターネットの盛りでかなり増えているし、自覚的でないにしろ集団によって自分が使う言葉の傾向が異なることは容易に想像できると思う。

2000年代における、僕たちの場所においての決まりの挨拶はこうだった。

 

「俺は」

 

20歳前後であった僕たちは自己が確立されておらず、社会と自分に対する不満で満たされていた。

理想の自分と、金曜日の夜自宅でキーボードを叩く自分とのギャップがチャットツールの白い画面に発現したのであろう。

挨拶された側ももちろん自己なんてわかってない別の「俺は」でしかないので、返す挨拶も実にいい加減なものだった。

 

「おまえは」

 

 

このような挨拶を経て夜が明けるまで自己を確立するためオンラインゲームに没頭するのだ。

長時間のオンラインゲームで見つけた自己もあると断言できるが、そこでは見つけられなかった部分も大いにあると感じている。

 

そうした残っていると感じている「俺は」性を照らす本が翻訳された。

わたしは不思議の環

わたしは不思議の環

 

日本では1980年頃邦訳された「ゲーデルエッシャー、バッハ」の著者の何作目かだ。

ゲーデルエッシャー、バッハ」には何度かチャレンジしたものの、慣れぬ論理学的語りと多数のアナロジー、そしてページ数に弄ばれたぼくはまだ読み終わっていなかった。

数十年の時を経て、違う切り口で同じテーマを取り扱う本だろうと直感(まえがきを読んだ)した僕は、まずこれを読んでみようと手にとったわけなのだ。

 

昨日読み終わったのだが、「俺は」とつぶやいていた僕は、同書をアナロジーとして「俺は」を語れるようになったように思う。

見つかりはしない彼らに会ったときはこう挨拶しよう。

 

「「俺は」という俺は」

 

 

これだけだとどんな本なのかがよくわからないと思うので、同書の内容がわかるものを代わりにに紹介して今回の投稿を終える。気になる方はこちら550ページくらいまで読んだ上で同書を読まれるとよろしい。

わたしは不思議の環

わたしは不思議の環

 

 

知の果てへの旅

僕には友達がおらず、ただひとり親友がいる。

 

インターネットで知り合うことについて、出会うという表現ができるとすると、彼とは二十年前くらいにインターネットに明け暮れていたときに出会った。

10年ほどはインターネットでは毎日のように会っていた。実際に会った回数は両手の指の本数に両足の指の本数をかけたくらいだろう。

量的にはそのようだが、質的には奇妙であることが伝わるだろうか。

 

今は宇宙の謎を解くべく夜な夜なLINEで世界の不可知について語り合っているのだ。

アートネイチャーだかアデランスのCMについて語っていた頃を思い返すと、どうです?えらく進歩したもんでしょう。

 

 

そんな夜の会議にうってつけの本が出版された。

 

知の果てへの旅

知の果てへの旅

 

 

テーマは不可知についてだ。

不可知な事柄については、現代はもちろん、古代から語り継がれている永遠のテーマだ。

過去に不可知とされた事柄も、人類の視界はずいぶん広がり解像度も上がった。

我々は今、何がわからなくて、何がわかるんだろうか。

 

無能なホモ・サピエンスで、学術的な専門家ではない我々にわかりやすく最先端科学(人文科学も含みたい)の見地から不可知の瀬戸際に猛進する。

というと、勢いがある感じだけども、シンプルにしすぎて感じがちがうんですよね。

著者の内面的な興奮なんかは感じ取れるんだけど、淡々と語っていく感じなんですよね。

知的な営みが心底好きです的なイメージをうけます。そういう人の本がひどく好きです。

 

 

細かいところで言うと、カオス、フラクタルから始まり、量子論素粒子論、相対論や意識のハードプロブレムまで取り扱われる。

詳しいことは他のサイトの書評なりを読んで欲しい。

 

文章は平易だし万人におすすめしたいのだけれど、おそらく事前知識がまったくないと理解が及ばない部分もあると思われる。なので、この本を楽しく読むための本をいくつかあげておこう。

 

ちなみに読み終わっていないので、足りない部分はあるだろうし、機会があれば後で追加する。

最後の方でゲーデルがでてくるらしいんですよ。楽しみだなあ。

 

相互作用 

セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか

セレンゲティ・ルール――生命はいかに調節されるか

 

この手の本を読むまでは僕自身自覚的でなかったんだけれども、世界は相互作用で満たされているということは大前提であるという風潮がある。

大抵の本には世界は相互作用なんだなーと考えさせる記述があるが、この本は明確に書かれていないと思う。でも前提としてあるんじゃないかなあ。

 

宇宙

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

 

スティーブン・ホーキングの有名な本。

本中にも登場するし、ホーキングがどんな人間で、宇宙がどんなことになっているのか、そんな事を知ることができる。

 

量子論

量子論はなぜわかりにくいのか 「粒子と波動の二重性」の謎を解く (知の扉)

量子論はなぜわかりにくいのか 「粒子と波動の二重性」の謎を解く (知の扉)

 

量子論は分かりにくく、学んだところでわかるような代物でないということはファインマンの言葉で理解したが、知ろうとする行為自体に意味がある(意訳です)とバートランド・ラッセルは言っていた。

何が量子論をわかりにくくしているのか、それがわかる。

 

相対性理論

量子論と並んで、感覚的でない物理理論だ。量子論は観測できないほどミクロの世界なのでファンタジーとして扱える。ただ、相対論は体験できる事柄にたいする理論なのにまったく感覚的でない。いったいどうなってんだ。

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

脳は直接関係しないです。デカルトさんが好きです。

 

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

唯脳論 (ちくま学芸文庫)

 

 fMRIでの意識の問題へのアプローチってかなりうさんさいと思ってたんだけども、脳周辺のことはある程度わかるような気がする。fMRIについての本ではないよ。

 

出てくる人たち

科学の発見

科学の発見

 

 最新科学を扱うものの、あたりまえのようにギリシャの哲学者と天文系の学者はでてくるので、一冊くらい読んでおくと雰囲気がつかめると思う。

 

 自然科学の人でも、特に数学系の人たちは哲学が好きだよねえと思う。

取り扱っているテーマは哲学的課題を多分に含むので読むといい。ヤフオクとかで買える。

 

錯覚など

 行動経済学的な話はでてくるし、人類はこの本を読むべきだとおもう。

 

番外 

物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史

物理学は世界をどこまで解明できるか―真理を探究する科学全史

 

ほぼ同テーマで、こちらは可知の地平線について。

 

 

まあそんな感じっすかね。


追記 2018.6.22 

 

読み終わったんだけれども、読むための本を追加しておきます。

 

ゲーデル 

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

ゲーデルの哲学 (講談社現代新書)

 

ゲーデルについてわかりやすくわかる本。

「知の果て」本自体によく論理学的な言い回しがでてくるので、読んでおくと理解しやすいのかなと思う。

 

■知の果て同テーマ本

 目線が違うので、読むとより本書の立ち位置がわかるかもしれない。

 

そして感想追記。

後半は特に著者の熱気が伝わってきていて、読んでいる僕も知的高揚感が増した。

こういう経験ができる本に出会う機会は少ないのだけれど、こういう体験があるということも読書の特徴と言える。

量子的バナナ

子どもの言葉にどのように返答しているだろうか。
返答に窮することがあるのではないだろうか。
例えば先日の記事のような質問だ。

webizo.hatenablog.com


親の尊厳を守り、子どもが世界を知ることができ、双方の合意を形成する、究極的な方法を僕は探している。
今回の投稿はその方法の可能性のひとつとして検討したい事柄である。


或る日、息子は言った。
「バナナたべたい」

「アイスクリームたべたい」
と更に付け加える。

僕は言う。
「なるほど。でも両方たべちゃったら夕ご飯たべられないな」
「バナナ食べるか、アイスクリーム食べるか。どっちがいい?」

僕の問いかけは、この時期の子どもに有効な「自分で選択することで納得感を得る」ことができるという、Yahoo!知恵袋でも子どものわがままに対する有用な返答としてベストアンサーに選ばれるほどの素晴らしいものだ。はてなブックマークでもこの種の言明をよく見かける。



息子は応える。
「バナナとアイスクリーム食べる」
はてなブックマークYahoo!知恵袋を超え、選択肢Cを創出した。

息子には世界の多様性を知って欲しいと思っているし、常識に疑問を投げかけ、考える人間になって欲しいと願っている。
考えているということを僕に知覚させた点については嬉しく感じたが、その選択肢は夕ご飯があるということと君の胃袋の大きさという前提を大きく崩しており、許容し難い帰結である。

前提の話しは息子には理解が困難であろうと思われたが、ふとバナナとアイスクリームの量子的な振る舞いで説明可能ではないかという考えにいたった。

物理的事物は観測することで固定される。故に観測されなければ、確率的にしか存在しない。
つまり、バナナは観測しない限り存在が確定しない。バナナは生きながら死に、死にながら生きているのである。

これらを考慮し、量子的な振る舞いをもったバナナの性質について子どもがわかるように伝えるための返答はこうなる。

「バナナはないよ」

いかがだろうか。効果があれば追ってお知らせしようと思う。

どのようにして人間はできたか

2018年1月2日、朝食の雑煮を食べているときのことだった。

息子は問う。
どうして人間はできたの?

新年早々の3歳児による深遠な問いに胸が踊った。
父親として出来得る限りわかるように伝えたいと思った。

僕は言う。
それを説明するためには138億年前に遡る必要があるんだよ。
その時、大きな爆発がおきたんだ…
…最初は水素が大半だったんだけれども、恒星の爆発なんかで核融合が…
…おおよそ50億年前に地球ができて…
…最初の生命は、アルカリ熱水孔で生まれたという説があって…

息子は僕の言葉を遮るように言う。
長いよね


こうして最初の問いへの回答は終了した。
話が長すぎたかという反省をし、同時にある疑念がわいた。


息子の問いは「どのようにして人間ができたか」ではなく、「なぜ人間ができたか」であったのではないか。

もしそうなら僕の回答はインテリぶったクソメガネ野郎でしかない。
見当違いの回答を長いという言葉で制した息子は何を考えたのだろうか。

「ああ、今のはちょっと僕(息子)の言い方がわるかったかもな。父親は勘違いしたかもしれないなあ」と、むしろ自分の責任であると反省していたのではないか。

あるいは、

「3歳児であるというプライミングが働き、父親が思う3歳の問いとして簡易な質問だと受けとったか。なるほど、これだから人間は興味深い。 それに答えられそうな方を考えるのは、父親の遺伝的な形質が関係しているのか、または後天的に獲得した形質が関係しているのか、それとも文化的な影響があるのだろうか。こういう影響があると考えられる人間に、人間自体のことがはたして検討可能なのだろうか」と思索を進めていたのではないか。


あけましておめでとうございます。

【2017】今年の10冊

特に誰にも求められているわけではないのだけれど、今年読んだ本のなかでベスト10を紹介する。
今年手に取った本は100冊程度で、読んだといえるのは70冊くらいだろうと思う。

あげている本については必ず何らかの示唆を含み、知的好奇心をくすぐられる羽目になったものばかりだ。
どのような表象を得たかということは、その本自体を読むことでしかわからないと思われるため、もし興味がもてれば表紙くらいは眺めてもいいのではないかと思う。


人工知能の核心 (NHK出版新書 511)

人工知能の核心 (NHK出版新書 511)


人工知能の今について「羽生善治」が書いた本である。
人工知能を取り巻く環境がどうであるかということよりも、人工知能を取り巻く羽生善治について非常に興味深く読めた。

ぼくは科学史を良く読むのだが、ニュートンライプニッツのやり取りやそれぞれの天才性についての記述を読む時に気分が高揚する。例えるなら、やっと悟空がついた!(ナッパ)感だ。
現代にスーパーサイヤ人が実在するのである。そういう雰囲気を感じることができるという点で良書だ。


生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化


2016年に和訳された、生化学者による生命とエネルギーと進化についての本だ。
高校の生物程度の知識がなければ難解であり、知識があったとしても難解である。

生命の起源については諸説あるだろうが、文章から感じられる誠実さと、異常といっていいほど熱意により説得力が増す。
難解さよる諦めに読みたさが先立つ。

熱意ある著者の検討を目にする機会を与えてくれたビル・ゲイツ氏には感謝したい。


量子論はなぜわかりにくいのか 「粒子と波動の二重性」の謎を解く (知の扉)

量子論はなぜわかりにくいのか 「粒子と波動の二重性」の謎を解く (知の扉)


数式はないが、量子論系の非学術図書を数冊読んだ程度の人間にとってはところどころ難解であるが、量子論の雰囲気がやっとつかめた気になれる1冊。

読者はハイゼンベルグに対して何らかの感情を持つと思われ、本書読後にあつまり、ハイゼンベルグについて語らうだけでも楽しいものになるであろう。僕には本書を読んだ知り合いはいないため、一人でニヤニヤすることしかできない。


困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)

困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)


すごく楽しそうな天才物理学者のエッセイ集である。
世の中にはこいつは幸せそうだなと感じる人がいる。僕の場合はインターネットで出会った少しバカっぽいところがあるが、ゲームはそこそこうまく、特に誰からも嫌われず、では何が幸せそうに見えるのかと言われると、いまいちうまく伝えられそうにない。
しいて言ってしまうと、幸せそうに見えるから幸せそうに見えるのだ、というトートロジーに陥る。

ファンマンさんは、そういう幸せそうに見えて、幸せなんだろうなと思える天才物理学者だ。
エッセイは、楽しいばかりの話ではないのだけれども、ボンゴを叩き、絵を書きながら物理学する天才にぼくは憧れざるを得ない。


すごい物理学講義

すごい物理学講義


邦題はひどくバカげているが、物理学における最新の諸説を教えてくれる本。

相対論や量子論は、まったく感覚的でない。「わからない」ことの比喩として「量子論」をつかってもいいほどだ。
量子論は実に量子論的である。この命題は真であろう。

ともかくわかろうがわかるまいが、世界はそのようにできているらしいと学者が言っている。
であれば、知るべきだろう。

また、海外ドラマにビッグバン★セオリーという番組があるが、番組視聴前の事前知識を得るための書としてベストである。


進化の存在証明

進化の存在証明


ドーキンスの本。進化論についてだ。
おそらくこれより有名な、利己的な遺伝子も読んだのだけれど個人的にはこちらのほうが良かった。
進化論の概観を説明しながら度々宗教に対してぼやくドーキンスの雰囲気を堪能できるかと思う。
やはり本は著者の人となりが垣間見れる方が楽しいと思える。

と書いたものの、ドーキンス性よりも進化論の概観を明晰に説明している点、これが良かった。


プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?


言語学に関する書籍で、内容はぼやっとしか覚えていないのだけれど、下にあげているレトリックと人生と対で読んで、なんだが良かった気がしている。

タイトルと表紙がかっこういいのでそれだけでも良い。


レトリックと人生

レトリックと人生


言語学についての知識はなかったんだけれども、ファストアンドスローを読む流れで言語学的なことに興味をひかれ手に取った。言語はもちろんのこと「人間」に対して示唆が多分に含まれているように感じる。

英語や国語をやると同時に言語学か暗号についての科目があれば世の中は円滑であろうと思った。



本の最後にラッセルの哲学入門の引用があり、それを見て哲学入門を読むきっかけとなった。
ラッセルに導いてくれたという点で、今年2番目によい本であると言える。


哲学入門 (ちくま学芸文庫)

哲学入門 (ちくま学芸文庫)


2017ベスト本だ。
著者のバートランド・ラッセルについては、科学史を読む中やウィトゲンシュタイン周りの情報で名前だけは見かけていたが、その重要性について完全な見落としていた。各書籍はラッセルの名前を太字にしてわかりやすくする必要がある。

ラッセルは、デカルト的誠実さとファインマン的ユーモアを兼ね備えた知の巨人だ。
分析哲学の祖らしく、誠実で回りくどいとも思える論理性と、実際は違うかもしれないがいい加減な感じ(もちろんファインマン的な意味でだ)で愛嬌のある文章が真に知性的であると思えた。
最も天才な人は誰かと問われた時にラッセルの名前は挙げないが、最も知性的な人はだれかと問われれば間違いなくラッセルの名を挙げる。

詳しい内容は本で確認してもらうとして、神は数学者か?でも引用された文章を引用したい。

それゆえ、哲学の価値に関する議論は次のようにまとめて良いだろう。問いに対して明確な解答を得るために哲学を学ぶのではない。なぜなら、明確な回答は概して、それが正しいということを知り得ないようなものだからである。むしろ問いそのものを目的として哲学を学ぶのである。なぜならそれらの問いは、「何がありうるか」に関する考えを押し広げ、知的想像力を豊かにし、多面的な考察から心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らすからだ。そして何より、哲学が観想する宇宙の偉大さを通じて、心もまた偉大になり、心にとってもっともよいものである宇宙とひとつになれるからである。




本を読むこととビールをのむこと、特にビールを飲みながら本を読むことは、生きるのを楽しむことと同じだ。
知的に満足がいくと人生の具合がいい。知識の地平を広げ視座を増やせば、もっと遠くへ行けるし、もっと遠くが見えるだろう。なにより楽しいに違いない。

宇宙について

f:id:webizo:20171215165319p:plain 万物は相互作用している。それらには作用するものと作用されるものがあり、作用した結果と作用された結果が新たな作用を働かせるため、それら自体を簡単に区別できないことがある。

ゴミとゴミを入れる袋についてはどうだろうか。
僕の住む市では燃やすゴミと燃やさないゴミの分別のために、専用のビニール袋が販売されている。

燃やすゴミの袋の中にゴミを入れるわけだが、燃やすゴミの袋自体はプラスチックである。
袋がプラスチックであることも気になるのだが、今回も次回以降も関係ない。

燃やすゴミの袋にゴミを入れた場合は、どこまでが燃やすゴミを意味するか考えたことはあるだろうか。
推論するに、ゴミを入れない燃やすゴミの袋は、真に「燃やすゴミを入れるための袋」であろう。

しかし、燃やすゴミの袋に入れられたゴミは、その時点で燃やすゴミであり、今や燃やすゴミとなったものが入っている燃やすゴミの袋は燃やすゴミの作用により燃やすゴミとして扱われるのではないかと思われる。

燃やすゴミの袋はゴミを燃やすゴミに変え、燃やすゴミは燃やすゴミの袋をを燃やすゴミに変える。
燃やすゴミが入っている燃やすゴミの袋をさらに燃やすゴミの袋にいれた場合も同様だ。

このように物質が循環的に作用することで、地球は周り、また地球を含む太陽系も周っているのであろうと考えられるのである。

待てるか待てないか。それは問題か

僕の世界は2種類のもので埋め尽くされている。
それは、僕が待てるものと待てないものである

例えば以下のようなものである。
・待てるもの
Chromeをアクティブにし、cmd + L でブラウザのurlの部分をアクティブにし、検索ワードを入力し、googleの検索結果を表示し、クリックをする

・待てないもの
Chromeをアクティブにし、cmd + L でブラウザのurlの部分をアクティブにし、検索ワードを入力し、googleの検索結果を表示し、クリック後のサイトへの遷移時間

一連の行動において、能動と受動が入り混じっているのは明らかである。

・「Chromeをアクティブにし」という行動の作用により、アクティブにされるChrome
・「cmd + L でブラウザのurlの部分をアクティブにし」という行動の作用により、アクティブにされるブラウザのurl部。
上はいずれも受動だ。

能動的に行動しているのであれば、待つという概念はないが、いざ受動となると待つことが生じる。
検索結果クリック後のサイトへの遷移は待てはしない。
ここに「待てるの地平線」が存在していると言えよう。

はて、「待てるの地平線」は遠いほうがいいのか近いほうがいいのか。



朝ごはんを食べながらそのようなことを考えていたのだが、僕のとなりに寝そべりながら息子は言った。

「世界は気持ちいいねえ。」