我疑わしい『方法序説』
生まれて初めての書評としてこの本について述べたい。 ちなみに僕はこの本を2016年ベストに選出している。 はじめて読んだのは行きの通勤電車の中だった。 乗車時間は片道40分ほどで、僕の主な読書時間となるお楽しみのB&T(Book and Train)だ。 僕はこの往復時間のために仕事をしている。 そんな通勤の電車で読んだ方法序説は、会社最寄りの駅に到着する頃、僕の心を激しく震わせていた。 新入社した社員にオリエンテーション資料として同書を渡すほど震えたのだ。 デカルト批判をわざわざ本で出すような人物もいるようだが、デカルト哲学はおかしいだなんだという話はどうでもよく、賞賛されるべきはデカルトの哲学に対する哲学である。 つまり哲するための姿勢だ。 デカルトは”コギト・エルゴ・スム”にいたるまで、自身がどのような場所で何をどのように考えたのかを細部に渡り描写する。 おおよそ5年まえのソーシャルゲームのチュートリアルほどに長い。ただ、丁寧で洗練されており、読んでいて非常に心地よいという点でソーシャルゲームとはかけ離れている。 それは、子供の頃の思索の度がすぎるモーガン・フリーマンを彷彿させ、あるいは懐疑を擬人化したといって過言でない僕の唯一の友人の形質を彷彿させる。 あなたはきっと僕の友人を知らないだろうから必然的におすすめの読み方はモーガン・フリーマンになる。 「モーガン・フリーマン 時空を超えて」を3度ほど見た上で、モーガン・フリーマンの声を想像しながら読んでみて欲しい。 モーガン・フリーマンの声で読み、本を閉じ、思いを巡らせる。 この強烈な知的体験を強く推奨したい。
- 作者: デカルト,Ren´e Descartes,谷川多佳子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1997/07/16
- メディア: 文庫
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トポロジー面白いね、と息子は言った
息子と絵を書いた。
年齢は3歳とすこし。
人を描く時はまず顔の輪郭がわかる丸を描き、顔のパーツを構成するには多少多いいくつもの点が打たれる。
その絵を「おばあちゃん」といって差し出せば、トミカのミニカーになって戻ってくるような、ワラとしては十分に使える3歳程度にモノを描く。
僕は、参考をたて、それを模倣することが3歳児に可能なのかを知りたいという欲求に抗えず、いつもと違う描き方を息子に提案した。
「これを描こう」クレパスの箱に書いてあるハチを指差し言う。
「ハチね」息子はそう言い、線を引き始める。
ハチに見えず輪郭が明確でない、けれどハチの腹のシマシマと解釈できるようなモノを描いた。
息子は言う「できた」
僕は言う「なるほど、トポロジーか」
息子は今のところ、モノを僕が見たように描くことはない。
しかし、ハチのシマが僅かに感じられるその絵は息子にとって、参考のハチそれそのものなのだ、とそう思えた。
僕はなんと狭量だったろう。
世界は感覚的でなく、サピエンスの認知はなんといい加減なものなのかと常々話しているのにもかかわらず、息子はまだ絵を上手にかけないと決めつけていた。
息子は描けないのではなく、すでに描いていた。
世界の解釈の仕方がちがうのだ。
そして、息子ははじめて聞いただろうトポロジーの意味も尋ねず、僕を慰めるように言った。
「トポロジー面白いね」
テーマの変更
文字が読みづらいんである
よく生きるために必要な3つの子
孫子 量子 親子
人は分かり合えないか
完全に分かり合うことはできないと思っていたんだけど、「分かり合うことができない」という事実は分かり合えるんじゃないかという気がした
これが分かり合いの第一原理
スケール
それを説明するために、四十億年ほど前を振り返ってみよう。
- 作者: 鎌田浩毅
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/10/19
- メディア: 新書
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はじまりのはじまり
ブログ作成から時間が空いてしまった。
ブログの主旨としてはある程度外観が固まっているし、日々考えていることもあるので投稿はしたい。
投稿したい気持ちはありつつもそれをしない理由は一人称代名詞が決まっていないということに尽きる。
この問題について検討を進めていきたい。
先日、いつものように友人と言語の特性について対話していたのだけれど、日本語の言語特性として特に漢字には字そのものにイメージがあるという話しをした。
その中の一つで話題に上がったのは字へのイメージでついつい想像しすぎてしまうよね、だ。
私(仮)がそうであるように、みなさんもそのはずだ。名前を例に取りたい。
- 太一 :太っている。頼りがいがあり、暖色系のトレーナー、ないし緑系の服
- 聡:スマートで黒髪で襟付きのポロシャツ
- 真司:破天荒な学生を相手にラグビーによって更生させようというような熱さを持っている
輪郭くらいは浮かぶレベルでイメージできないだろうか。
太一が太っていると思うのと同様に、真司で真司を想起しないわけにはいかない。
私(仮)は真司ではないし、ラグビーともほぼ関係がなく、太い赤ボーダーの服も着ないしシロ短パンも履かない。
このような印象を考慮してしまうと、このブログでの一人称代名詞を簡単に決定することはできない。
一人称代名詞は名前の場合とは違い、そもそものイメージがあるため厳密には名前漢字とは違うのだが、捨象すれば同じだ。勝手なイメージ構築がそこある。
一人称代名詞のイメージはこうだ。
* 「僕」とした場合は、少年なのかな?青年なのかな?それとも男性?僕っ子?しもべ?
* 「私」とした場合は、男なのかな?女なのかな?
* 「吾輩」とした場合は、猫なのかな?男爵的なヒゲの持ち主かな?
ブログのテーマとフォント見てたらなんでもいい気がしてきた。僕にするわ。