どのようにして人間はできたか
2018年1月2日、朝食の雑煮を食べているときのことだった。
息子は問う。
どうして人間はできたの?
新年早々の3歳児による深遠な問いに胸が踊った。
父親として出来得る限りわかるように伝えたいと思った。
僕は言う。
それを説明するためには138億年前に遡る必要があるんだよ。
その時、大きな爆発がおきたんだ…
…最初は水素が大半だったんだけれども、恒星の爆発なんかで核融合が…
…おおよそ50億年前に地球ができて…
…最初の生命は、アルカリ熱水孔で生まれたという説があって…
息子は僕の言葉を遮るように言う。
長いよね
こうして最初の問いへの回答は終了した。
話が長すぎたかという反省をし、同時にある疑念がわいた。
息子の問いは「どのようにして人間ができたか」ではなく、「なぜ人間ができたか」であったのではないか。
もしそうなら僕の回答はインテリぶったクソメガネ野郎でしかない。
見当違いの回答を長いという言葉で制した息子は何を考えたのだろうか。
「ああ、今のはちょっと僕(息子)の言い方がわるかったかもな。父親は勘違いしたかもしれないなあ」と、むしろ自分の責任であると反省していたのではないか。
あるいは、
「3歳児であるというプライミングが働き、父親が思う3歳の問いとして簡易な質問だと受けとったか。なるほど、これだから人間は興味深い。 それに答えられそうな方を考えるのは、父親の遺伝的な形質が関係しているのか、または後天的に獲得した形質が関係しているのか、それとも文化的な影響があるのだろうか。こういう影響があると考えられる人間に、人間自体のことがはたして検討可能なのだろうか」と思索を進めていたのではないか。
あけましておめでとうございます。